あの頃都江堰にいた: 2001年4月11日(水)

今日の授業は5時からの課外活動なので、それまでかなり時間が空いている。

午前中からTさん、I君と3人で街へ買い物に行った。高柳さんはついでに床屋で髪を切りたいらしい。

昼食を探してブラブラしていると、マクドナルドとケンタッキーを一緒にしたような店が目に付いた。

たまにはハンバーガーもいいか、と入ることにしたが、失敗だった。

チキンのはさんであるハンバーガー、そのチキンがやたら薄っぺらい。衣ばっか。ハムカツか?と思った。

もさもさしたハンバーガーを食べ終え、床屋に向かう。帰りに郵便局で航空便用の封筒を買って用事は終了。

課外活動には小学6年生、中学生ら7人が来た。選択で日本語を選んでいるだけあって真剣に話を聞く。

興味を持っている子に教えるのは楽しい。

授業が終わればすぐ夕食だ。夕食後に部屋に戻ると、今日はトイレが壊れたらしい。

もともとトイレは二つあって、片方が初めから壊れていた。それで一つだけを使っていたのだが、ついにそれも壊れたらしい。

どうなるんだこれから、と思っていたら、もともと壊れていたほうが使えるようになった。

訳がわからない。

本当に、問題ばかりだ。この家は。

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あの頃都江堰にいた: 2001年4月10日(火)

今日は五年生の授業である。

とりあえず4年生と同じ調子で初めからやってみることにした。しかしこれは失敗だった。もう習ったと文句ばかり言ってもろくに話を聞かない。

そのわりにはローマ字で振り仮名を振らないと平仮名も読めないし、あいさつの使い分けも出来ないし、第一発音が悪い。

きっちり説明できれば良かったのだが中国語でそこまで言うことは出来ず、失敗。

担当する学年は二つだけだが、それぞれの学年にあった教え方を工夫していかないと、授業を続けていくことは困難だろう。

前向きに考えれば5年生は新しいことを学ぼうとする意欲があるので、そこを利用したい。今日の反省を明日に活かさなければ。

夜はフランソワーズと新任のフランス語教師、日本人4人の合計6人で、「火鍋」を食べに行った。

辛いものが苦手なので今まで火鍋は避けてきた。

いよいよ今日が火鍋初体験である。

が、思ったほど辛くなかった。どうやらこの辺ではそれ程辛くしないようだ。しかし話によると成都の火鍋はもっと真剣に辛いらしい。

帰って部屋でのんびりしているとM君がやってきた。

とうとうシャワーが壊れたらしい。見に行ってみると、シャワーの付け根がねじ切れており、その切れ目から勢いよく水が噴射している。

これは笑うしかなった。

今日はシャワーが壊れたか!なんだかだんだん物が壊れていく気がする。部屋の寒さも何とかしてほしい。かなり着込んで寝ないと風邪を引いてしまう。

てゆーか他の先生の部屋は暖房がついてるのにどうして日本人の部屋だけつかないんだ。

話題には事欠かない生活が続きそうだ。

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あの頃都江堰にいた: 2001年4月9日(月)

この学校に来てから2度目の月曜日。朝、新しい授業予定表を渡された。

今日から本格的に授業を始めることになる。

担当するのは4・5年生と中学生の課外授業。

結局3人とも週5コマ、1日1コマとかなりのんびりである。空いてる時間は自分で自由に使えるが、空手の先生のサポート、授業の組み立てなどそれなりにやることはある。

今日はいよいよ机と椅子が部屋にくる日である!やっと机で物が書ける。パソコンを使うのもベッドの上じゃなくていいんだ。

これくらいのことでこれだけウキウキできるなんて!

授業は午後の4時間目、4年生だ。4年生の授業をするのは今日が3回目だが、先週はVCDを見ただけだし、本格的に「日本語の授業」をするのは今日が始めてだ。

4年生はピンインをふらなくてもひらがなが読めるようなので、授業もやりやすそうだ。

まずは日本語の挨拶から始めることとした。先週の感じでは一通りの挨拶は知っているようだが、意味を完全に理解していないようだった。そこでおはようございます、こんにちはのような簡単な挨拶でも何度も繰り返し発音し、しっかりと覚えさせることに重点をおいてみた。

単語を覚える上での三つの鉄則。読めて書けて意味を知っている。

相手が小学生なので細かい文法の説明などはせず(とゆうか自分もできない)、読めて書けて意味を知っているにウェイトを置いて授業をしていこうと思う。

終わってみると、結構上手く授業できたような・・・気がする。生徒もしっかり参加してくれていたし、何よりサポートについてくれている英語の先生が時折絶妙な解説をいれてくれるので助かる。こちらの中国語もだいぶお粗末なので、ありがたい。

今回の授業はそこそこ成功だったようで、その先生からもお褒めの言葉をいただいた。次からもこの調子でいければいいが。

明日は5年生の授業だ。先週はM君が教えていたが、彼は2・3年生をおしえることになった。

5年生はどうなるだろうか。

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あの頃都江堰にいた:2001年4月8日(日) 『成都散策』

成都の「電脳城」に買い物に行く。

海賊版のCD、CD-Rがわんさか売っているらしい。

Tさんがプロバイダー契約に行くので、それを見つけるのも目的だ。自分は居留証をつくるためパスポートを持っていかれてるからまだ契約できない。早くネットにつなぎたい。

バスで成都に行き、さらにタクシーで移動し、電脳城へ到着。

あるわあるわ、違法CDが山ほど!リアルプレーヤーで見れる日本のアニメもたくさんある。こういうの見るとついつい買っちゃうんだよなぁ。10枚ほど買ってしまった。

プロバイダーを探す。

・・・が、道に迷う。

仕方がなくタクシーを捕まえ、イトーヨーカドーに非難することにした。イトーヨーカドーの地下で買い物をし、昼食をとる。

日本語が話せる店員がいたので、プロバイダーの場所を教えてもらった。

タクシーに乗り三度目の移動。

「本日休業。謝謝合作」

残念でした。

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あの頃都江堰にいた:2001年4月7日(土)

Tさん、M君と3人で校長室へ向かう。

しかし何故か幼稚園児に捕まった。教室に引きずり込まれ2時間みっちり付き合わされた。

なんとか抜け出し再度校長室へ。

授業配分は一人5時間程度になる。部屋の電話も代えてくれると言ったし、机も用意してくれるみたいだ。いろいろ学校内の説明など話を聞き、3人とも満足で校長室を後にした。

午後、M君が「新東門大市場」という大きな市場を発見したと言う。

市場はメインストリートの裏側にあった。現代風の店が並び、車も多い通りをそれたところにある、中国らしい雑多な市場だった。

食材も、家具も、基本的な生活用品はここで全て揃うだろう。

出店で買った小さなケーキを食べながら歩く。市場に並ぶ様々な品物にいちいち目を奪われながら歩くのは楽しい。少し古びた感じのする、そんな市場だった。

夕食後、子供たちが大勢やってきた。道場でダンスや空手の練習がしたいという中学生、東芝や王磊ら高校生が遊びにやってきた。

生徒を部屋に入れるなと言われてるんだけどなぁ・・・。

ある生徒がI君をからかっていた。I君は年が19と彼らと近い。

何か頭に来たことがあったのか、I君がいきなり生徒の胸倉をつかんでしまった。先ほどの生徒も19歳らしいく、ナメられたわけか。しばしI君と話し合う。

次に中学生女子4人組がやってきた。まるで嵐のようだった。

なぜか持ち物をねだられる。

写真をよこせと言う。

適当に選び与えると、満足して帰っていった。

それから10分ほど過ぎ、女性の先生が見回りにきた。

「生徒たちはいない?」

「はい、いません」

「絶対生徒たちを部屋に入れちゃだめよ?」

「あ、はい」

「特に(強調)、女生徒はね」

「あ、はい」

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あの頃都江堰にいた: 2001年4月5日(木) 『引越し』

ついに引越しだ。

待ちに待った引越しだ。

TさんとI君は50日間もあの部屋に耐えた。

やっと出来たマイルーム。さっそく自分の部屋作りを会社、と、なんだこの部屋、ベッド以外なにもない。

しかも窓を見ると・・・カギがついてない!

大工のおじさんに言うと、「その辺にタイルが落ちてるだろ?それを使うんだ」・・・最高です。

まあ、学校の敷地内なのでそれ程気にすることもないかと無理矢理納得し、あらためて荷物の整理に取り掛かる。

一通り作業を終え、ベッドに腰を下ろした。

しかし体に空気の流れを感じ、ふと目を横に向ける。

壁に穴が空いてた。

部屋の窓際にオイルヒーターが置いてあり、そこからパイプが一本外に伸びている。そのパイプが壁を通して外に出ているのだが、穴が向こうの景色が見えるほどにでかい。

カギはない。壁に穴は空いてる。大当たりである。

夜はNさんもやってきて、引越し祝い兼親睦とした。

途中フランソワーズもワインを持って参上。

「You are living in Jungle!」

ネズミが入ってくるから気をつけなさい、とも。

遅くまで飲んだ。Tさんの熱いトークを聞きながら。

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あの頃都江堰にいた: 2001年4月4日(水)


朝8時に出発。成都の病院で身体検査を受ける。日本で受けた検査に不備があると言う。指定通り国立病院で検査をしたのだが。

しかし中国専門の身体検査をするクリニックで受けたM君も再検査なのは解せない。3万くらいかかったらしいのに。

血液検査とレントゲンを撮って病院を出た。その後付き添いの先生二人と一緒に昼食。美味。特に「蹄花湯」と「肥腸」が良かった。

豚足とモツである。聞いただけで垂涎ものである。

後はバスで都江堰まで帰る。結局往復で4時間近くバスに乗ったわけだが、けっこうこたえた。

これくらいで参っていたら中国旅行することはできないだろうけど。

午後は特に用事なし。街まで出かけ、非常可楽を購入。

戻ると、ちょうど4年生の空手の授業が終わったところだった。

話でもしようかと二人の先生のそばに行くと、お互いの指導法のことでもめていた。

4年生も相当手ごわいらしいが、彼らにとって一番の強敵はお互いのコンビネーションのようだ。一人で教えて難しいものが、二人で教えれば簡単になるといったものでもない。自分も同じ状況だが、これも悩みの種になるのだろうか。

夕食後、I君とともにカンフーを習う。

夜、Tさん、I君の部屋にいると、東芝とワンレイの二人が遊びにくる。今日はビヨンドの曲をギターで弾いていた。

I君とセッションし、さて帰るかとドアを開けるとやばいやばいとドアを閉める。

先生がいたらしい。

すると生徒を部屋に入れている方も悪いのか。全寮制の貴族学校は厳しい。

二人とも「バイバイ!」と言いながら窓から出て行ってしまった。どこの国でも悪ガキはたくましい。

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あの頃都江堰にいた: 2001年4月2日(月)

初仕事。

M君と相談した結果、自分が4年生、M君が5年生を担当することに。今日の授業は4年生だけなので、早速出番というわけだ。とりあえず授業は午後からだから少しのんびりしていよう。

5年生の空手の授業を見学しに行った。TさんとI君の二人で教えている。

興味のある生徒とない生徒にきっちり別れてしまっていて、これがこの学校の現状らしい。

Tさんの話を聞くと、4年生も同様だそうだ。どうなることやら。昼食をとってTさん、Nさんと雑談。しばし休憩し授業に挑む。

まずは自己紹介をしてみた。この位は分かるらしい。生徒がどの程度日本語を知っているかを試すだけしかできなかった。

見ていると、やはり興味のある生徒とない生徒と、きれいに別れてしまっている。よくやっている生徒はノートにきちんと日本語も書いてあるし、挨拶もいろいろできる。逆にまったく興味のない生徒は・・・。

現地の先生たちに言わせると、まじめな生徒を中心に進めていいらしい。興味のない生徒は置いていっていい、と。

がんばっている生徒の意気に答えるのは当然だ。では興味のない生徒は?興味がなければ置いていく?

実際彼らがこれから日本語を必要とするかどうか、またこれからも学び続けるかどうかは彼ら自身が決めることだ。現時点で興味がないのだし、自分で選択したのではなく学校のカリキュラムに日本語が入っているからという理由だけなのだから、学校としても置いていって不都合はない。

では、興味のない生徒たちを全く無視して授業を進めることが出来るか。

分からない。小学生の頃、自分は授業に興味がない、勉強が出来ない部類の生徒だった。

授業中前を向いていたことなどほとんどなかったし、宿題もやらなかった。教科書も落書きでいっぱいだった。はっきり言って授業はつまらなかった。

よく先生に叱られたものだった。

そして、今ここでやる気のない生徒たちを見ている。

あの頃の自分が重なって見える。放っておくことなど出来るわけがない。

なんとかしたい。

自分の授業を作り出す。教育実習で教科担任の先生が「君の授業をしなさい」と言った。

あの言葉のおかげで教育実習の2週間は悩みっぱなしだったが、どうやらここでも悩み続けることになりそうだ。

夕方7時から、英語の先生たちが行う英会話レッスンに参加した。英会話というよりもキリスト教の話ばかりだったが。

明日は中国語の授業もあるらしい。なんとか家庭教師を引き受けてくれる先生も探さなければ。

このままでは中国語の会話もままならない。悩みが多い日常になりそうな、そんな予感もするが、ま、なんとかなるだろう!

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あの頃都江堰にいた:2001年4月1日(日) 『新天地』

幸せ者だ。心の底からそう思った。本当に幸せを実感した時に僕は涙を流せるだろうか、以前そんな事を考えたことがあったが、どうやら心配は要らなかったらしい。泣いた。彼らには感謝しなければ。大学生活の中で築いた財産は数あるが、彼らとの出会いこそが一番の財産だと、そう思う。心からそう思う。

この一ヶ月間は、そんな瞬間が多かった。皆が門出を祝福してくれ、そして別れを惜しんでくれた。そのたびに思った。幸せ者だ。空港でのことを思い出すと、今でも泣けてくる。わざわざ空港まで見送りにきてくれた。それぞれ餞別まで用意してくれて。

電話をくれたものもいた。出発前に話ができてよかった。

出発ゲートの前に行く。

「じゃ、行くよ」

その時だった。

涙が出た。本当は少し別れの言葉も考えていた。ちょっぴりカッコつけて、何か景気のいいことでも言ってやろう。そう考えていたが、それどころではなかった。涙ばかりで言葉が一つも出てこない。

たった一つだけ出てきた言葉がある。「ありがとう」。ひたすらその言葉を繰り返すことしかできなかった。これから先、あの時と同じ「ありがとう」を言える瞬間が幾度あるだろうか。あの時「ありがとう」と言えた事を幸せだと思う。

こうして成田を出た。

上海でも、友人たちが迎えにきてくれた。元気そうでよかった。

「楼外楼」という杭州料理店で食事をした。うまかった。久しぶりに本格的な中華料理を食べた。上海では今杭州料理が流行っているらしい。「杭州名菜」と書かれた看板をよく見かけた。いずれぜひ杭州にも行こう。

南京路を散策して、バンドの夜景を見た。上海の夜は明るい。そして華やかだ。ブラブラと歩くだけでも十分楽しい。

気分がいい。この一ヶ月は別れの連続で、少し落ち込み気味だったが、おかげで元気が出た。夏にでもまたゆっくり時間をかけて来ようと思う。

同僚のM君とともにいよいよ成都に向けて出発。上海から飛行機で約三時間。再びしばしの飛行だ。

成都空港では、現地の先生に頼まれていた半畳敷きの「畳」が出てこなかった。係員に尋ねたらすぐに見つかったが、その時畳の説明で少し苦労した。苦し紛れに「タタミ」と言ってみたら、それで通じた。タタミの発音で通じるとは。

迎えに来てくれた先生は著名な画家であるらしい。パンダの絵をよく描く。「パンダの第一人者」と言われているらしい。すぐに都江堰に行くのかと思っていたら、まずは先生の家に一泊、次の日の午後に都江堰に向かうのだそうだ。

成都で一泊し、31日にようやく都江堰に到着。

与えられた部屋は二人部屋。テレビも何もない。どうやら部屋は建設中らしい。

4月5日に完成するとのこと。部屋の様子を見に行くと、6畳程しかない。その中にベッドと机が入る。テレビ、洗濯機、キッチンなどは共有になるようだ。

どうもいきなり聞いていた話とは違うようだが、なかなか面白くなりそうだ。

日曜日なので、とりあえず街に出て買い物をした。街まで出れば一通りのものは揃う。

非常コーラが売っていた。迷わず購入。

夕方、授業の話を聞く。最初の1週間は4時間しか授業がない。なんだそりゃ。

しかもM君と二人でだ。校長先生が不在なので仕方がないらしいが。1週間たてば、もう少し変動があるかも知れない。

明日からいよいよ仕事が始まる。と言っても1時間だけだが。

それでも仕事には変わりない新天地での生活がいよいよ始まろうとしている。

この地で過ごす2年間を、必ず自分の力に変えてみせる。

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昔、都江堰にいたことがあった。

成都の北西約60km。都江堰市。

もとは灌県と呼ばれていたが、市内にある古代の水利施設にちなみ都江堰市に改名された町である。その水利施設、都江堰は2000年、青城山とともに世界遺産に登録されている。

成都平原が「天府之国」と謳われるのもこの施設の功績であり、建設から2000年以上経った現在でも機能し続けている。

2001年4月から翌年の7月までを、その都江堰で過ごした。

小学校の日本語教師としてである。

日本語教師と言っても自分は日本語教育の専門ではない。大学卒業間際、12月も終わる頃になってから当時の恩師が紹介をしてくれたのだ。学校関係者の友人とかツテとかで、半分留学気分でもいいので日本人に来て欲しいと、そういう話であった。

「このまま中国語を使う機会があるかどうかもわからん会社に就職してもつまらんだろう」

正直言えば少しだけ悩んだ。言うとおり、中国語を使うかどうかもわからないが、それでも氷河期の中なんとか取り付けた内定があったのだ。

結局その会社には直接お詫びをしに行った。

大学の卒業式には出た。3月の20日かそのあたりであったと思う。その後、すぐ四川に発った。

日記は4月1日から始まっている。

内容は極めて青い。若い。若すぎる。

それを、これから少しずつ、多少なりとも、公開していこうと思う。

何かおかしなことが書いてあったとしても、若気の至りと思ってどうかご容赦願いたい。

あの頃、都江堰に自分はいたのだ。その記憶を、思い出しながら。

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